
音楽家の友人、岡山在住の今井千晶さんのCDアルバムのために写真を撮りました。9年ぶりの
リリースになりますが、ここまでの3作品のすべてを、友として撮りつづけるご縁をいただき
ました。ふたりとも年を重ねて、もうとっくにおじいちゃんとかおばあちゃんと言われる世代
です。なのに面白いものですね。撮る度に透明になって行くんですから。お互いに田舎のマイ
ナーな表現者ということもありますが、もう自分のことなんてどうでもいいという感じです。
純粋に歌い、純粋に撮ることを心から楽しめました。今回のテーマは、儚い白、でした。千晶
さんと何度かやりとりしましたが、実際にその場に立ってみると、周辺の地形やらお日様やら
レンズの性能やらがすべて絶妙にマッチして、打ち合わせたこともすっかり忘れて興じてしま
ったのでした。ロケ地はぼくのかつてのフィールドでもある白山麓です。

なんだこれ?そっか、日食だった
なんて影を見て思い出す(笑)

公園を取り囲む金網からやんちゃに飛び出した植え込みの花に比べて、山の片隅に
咲くツツジのなんと清楚なことだろう。清浄な朝の空気に共に包まれ、思わず鼻先
を近づけた。別段香しい匂いを放っているわけではないけれど、いつの間にかそれ
が花の秘かな愛で方になった。「きれい」と独り言が唇からこぼれる。こんな綺麗
なだけの写真を、数年前まで毎日のように撮っていた。あの頃と今と、見つめるこ
のまなざしに違いはあるだろうか。自分のことなのによくわからない。花を愛で、
優しい心持ちになって撮り、そしてやっぱり綺麗なだけで終わっているんだろうか、
などと書き連ねているうちに、心の奥底に沈殿している哀しみがまた揺らめき出し
たのを感じる。「きれい」と、あいつがここにいたならきっと同じように言うだろ
う。綺麗なだけでは、もはやいられないようだ。いつも哀しみが浮かび、纏わりつ
いてくる。

毎朝のように同じ山の小径を歩いていると、いくら自分なりの大き
な目的があると言ってもすこし単調に感じているところだった。そ
のせいか、見かけた木陰のちごゆりの前に跪いた瞬間、敬虔な思い
と言ってもよさそうな新鮮な気持ちになった。茎の先端で咲いた親
指ほどの白い花はおそらく何日も開いていないんだろう、翌日は雨
に濡れて地面に打ちひしがれていた。小さな山野草は愛らしいけれ
ど、毎年決まって顔を出す陰には様々な営みがある。種でも増える
ちごゆりは、地下茎による無性繁殖もしている。この手のしぶとさ
を多くの山野草が持っていそうだ。いずれ工夫や努力などは目立た
ないものだ、見えないところで積み重ねて行くものだ。里山の朝に
ちごゆりがそう教えてくれた。

新緑の里山を歩きながら出合う木々にいちいち見とれている。この季節の
山は人にもとてもやさしい。背負った今日の27キロの荷さえ軽く感じて
しまうほどだ。歩くこと、歩けること、なんとすばらしいんだ、などとい
くらか感動したのち里へ下ると、急に肩への重みが増して辛くなる。山の
人にはならないだろうが、平地に住むこと、ほんとうに人にふさわしいこ
となんだろうかと、ときどき気になる。

海を見つめて男が立っていた。なんの変哲も
ない風景が、たった一粒のシルエットで様変
わりしてしまう。人の存在とは、影でもある
ようだ。影は光を秘めている。

日の出がどんどん早まるにつれ
暗がりばかりを求めていた者も
光や水や空気など、朝の贈り物
で満たされる。

この春はわざわざ花見をする気になれずにいたのに、花見がてらの
仕事をいただいた。日中にロケハンをして、きっと夕暮れ時がいい
ですよ、と自分が見たい時間に撮影することにした。この一枚の写
真は実は五枚ものカットで合成してある。もっともいいタイミング
で撮ったつもりでも、明度やコントラストをさらに調整する必要が
あった。だからパソコンの前でも、花見のつづき。まるで桜の絵で
描いているような気分だった。
< 前のページ



